静かに森の中を歩きたい時、山城跡によく出かける。
もう数え切れないくらい歩いている黒滝城址は、上杉謙信が歴史の表舞台に躍り出た地。
黒滝城は、弥彦山と国上山の間に位置する標高246mの要害に築かれた山城で、
その規模はきわめて大きく、蒲原地方全体の中でも屈指の存在。
北陸道の軍略上の要で、戦国時代には「黒滝要害」と呼ばれていた。
越後の覇権をめぐって繰り返される動乱の度に、ここで攻防が繰り広げられた。
上杉氏の会津移封で廃城になってから400年以上経った今でも、
尾根を断ち切る堀切、特徴ある曲輪、井戸跡など、当時の遺構がよく残っている。
1546年、この黒滝城で、長尾景虎(のちの上杉謙信)が歴史の表舞台に躍り出た戦があった。
越後守護代であった景虎の父・長尾為景が没し、越後国内は混乱していた。
当時の黒滝城主「黒田秀忠」は、家督を継いだ長尾晴景(景虎の兄)に反抗し挙兵。
しかし失敗に終わり、丸坊主になって他国に逃れることで助命を赦された秀忠だったが、
密かに領内に戻り、黒滝城に一族を集めて再び抗戦の構えをとった。
その頃、栃尾城に配されていた景虎(謙信)はそれに激怒して黒滝城に攻め寄せ、
黒田一族はことごとく自刃して滅んだ。
この時、景虎は16歳。
この戦いで武名を世に轟かせた景虎は、越後諸将の支持を得ていくことになる。
2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」で、上杉謙信をGAKUTが演じた。
その初登場シーンは、セリフも無い短いシーンだったが、
黒田一族を討伐するために黒滝城に攻め入った場面だと思われる。
16歳に見えるかどうかは置いといて(笑)、なかなかカッコよかった。
それまでの戦国武将の厳ついイメージとは異なるGAKUTの上杉謙信は好評を得て、
それから数年間、上越市の「謙信公祭」でも謙信公役で登場し、
全国から多くのファンが詰めかけて大変な盛り上がりを見せた。
現在のイケメン武将ブームの走りだったかも?
さて、黒滝城の散策開始。遊歩道の入り口から鬱蒼とした林の中へ。
山の尾根をナタで断ち切ったような、深さ20mほどの「大堀切跡」。
その奥からは弥彦山を望める。
堀切の急な階段を上がると、馬の背のような細い尾根道が続く。
本丸手前の壱ノ堀切は、深さ20mの急斜面。 新しくロープがかけられていた。
堀切を上りきると、城の本丸「天神曲輪(てんじんくるわ)」。
城で一番高い場所で標高は246m。33×16mと狭く細長い場所。
奥から振り返るとこんな感じ。
本丸というイメージからすると、初めて見た人はその狭さに驚くかもしれない。
城というと、石垣の上にそびえる天守閣を思い浮かべるが、
それは織田信長が安土城を築いて以降のイメージ。
戦国時代の城郭は現代人がイメージする姿とはまったく異なるもので、
大半は山岳部の地形を利用し、土木工事で築かれた防御施設だった。
普段は麓にある住居で生活していた。
ところで、歩き始めたばかりなのに、もう最高地点の本丸? と思われるでしょうが、
林道を車で登ってくると、すでに本丸近くなので、散策はいつもこんな順番。
遊歩道はここからどんどん下っていきます。
本丸から最も急な階段を慎重に下りて「弐ノ曲輪」へ。
山を切り開いた54×22mもある広い曲輪で、戦時には副大将が守っていた。
15年ほど前、ここを訪れた時、一本の野生の梨の大木があって白い花をたくさん咲かせていた。
木はその頃から枯れ始め、枝を切られ、幹を切られ、来る度に小さくなっていった。
残っていた切り株もとうとう撤去され、木の痕跡は跡形もなく消えてしまった。
初めて訪れた時の、あの心地よい時間を共有した同志がいなくなったようで、なんだか寂しい。
木々の生い茂る道を少しずつ下りながら「桜井の曲輪」へ。
山の中腹を削り築かれた38×28mの曲輪で、戦時に城主が居城した館があったという。
周りを杉に囲まれて、いつも少し薄暗い場所。
曲輪の奥にあるのが、貴重な水源だった「桜井戸跡」。今は埋もれて水は見えない。
落城の際、ここに財宝を埋めたという伝説が残っているが、その真偽やいかに…
桜井の曲輪から、さらに長い階段を下りていく。当然下りた分だけ後で登ることになりますが(笑)
昔から来ているのでホームグラウンドのような感じがする黒滝城址。
できるだけさらりと終わらせようとしたが、やっぱり1回じゃムリでした…(笑)
後半へ続きます。