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雲洞庵の土踏んだか Ⅰ

 

 

雲洞庵の土踏んだか
この言葉は、雲洞庵で曹洞宗の禅を学なければ、一人前の禅僧とは言えないという意味。

 

 

南魚沼市、金城山の麓に建つ曹洞宗のお寺「雲洞庵」へ。


越後における曹洞宗の四大道場の一つに数えられた名刹で、
戦国時代には上杉謙信武田信玄に帰依され、北越無双の大禅道場として栄えた。

 

 

赤門から本堂までの石畳の下には、法華経を一字ずつ記した石が埋められていて、
ここを通ってお参りすると罪業消滅、万福多幸のご利益があると言われている。
冒頭の「雲洞庵の土踏んだか」という言葉は、
「雲洞庵で曹洞宗の禅を学なければ一人前の禅僧とは言えないぞ」と
お互いに禅の修行を励ましあった合言葉が起源とも言われている。

 

 

訪れたのは2月中旬。冬場のせいか、そのありがたい参道は通れなかったが、
並行して続くこの道も、杉木立に光が射して心が洗われるようだった。

 

 

禅寺の風格が漂う本堂。
新潟県指定文化財になっている本堂は1707年に建て替えられたもの。
1429年に関東管領・上杉憲実が建てたものとほぼ変わらない姿で造られたと伝わる。

 

 

冬場の平日だったので、他に訪問客はいなかった。
本堂の中はひんやりとしていて、その静謐さに身が引き締まる。

 

 

「大方丈(だいほうじょう)」の間。
柱が天井まで突き出ておらず、白壁で天井が浮き出るように造られている。
これは書院造りの最高の様式で、越後では雲洞庵だけで、最高寺格を表すという。

 

司馬遼太郎原作の小説「峠」を映画化した「峠 最後のサムライ」のロケがここで行なわれた。
劇中の見所のひとつ「小千谷談判」の場面。
開戦か否か。
戦争を何としても避けたい越後長岡藩家老・河井継之助役所広司)が、
西軍の岩村精一郎(吉岡秀隆)と、小千谷市の慈眼寺で会談を行った歴史的一場面。
残念ながら河井の思いは聞き入れられず、
無情にも「河井、帰って戦の用意をしろ!」と告げられるシーンはこの部屋で撮影された。

 

 

大方丈の間にあった「景勝・兼続勉学の図」。
NHK大河ドラマ天地人」でも描かれているが、
幼い頃の上杉景勝(喜平次・10歳)と直江兼続(与六・5歳)が
この雲洞庵で学んでいる様子が描かれている。
二人は戦国時代の武将としては教養が高く、四書五経をはじめ中国古典にも造詣が深かったとされる。

 

雲洞庵十世、北高全祝(ほっこうぜんしゅく)は、
上杉謙信武田信玄の禅の師としても知られている名僧で、
両雄に、戦で民百姓が苦しまないため戦場を川中島にすることや
塩を武田側に送ることを勧めたとも言われている。
「ケンカしないで仲良くしなさい」ていうのは、さすがに無理だったんでしょうか…

 

 

隣の部屋に置かれていた韋駄天の像。小さいが存在感を放っていた。

 

 

禅寺の趣を醸し出す火灯窓(かとうまど)。美しい曲線が並ぶ。

 

 

内陣に向って右脇間の襖に描かれた絵。これは有名な禅問答のシーンらしい。

木の上で座禅をしているのは中国唐代の禅僧、鳥窠(ちょうか)道林禅師。
その様子を見た白楽天が、
「そんなところで座禅をしていると危険ですよ」と言うと、
禅師は「あなたの方が危険に見えるが」と答えた。
「何の危険があるというのでしょうか」
「薪を燃やすかのように、煩悩の炎が燃えあがっている。どうして危険がないなどと言えるのか」
楽天はさらに尋ねた。
「佛教の真髄とは何ですか」
「悪を行わず、善を行うこと」
「そんなことは3歳の子どもでも知っていますよ」
「3歳の子どもでも知っているが、80年生きた老人でも、この道理に沿って生きることは難しい」
その言葉に、白楽天は自らの至らなさを悟ったという。

うーむ… 
木に登っただけで煩悩の炎から逃れられるのだろうか… 
高いところにいる分、逆に危険度が増している気が…
もし凡夫の私が声をかけさせていただけるなら「おじいさん、危ないから、まず一旦降りましょう!」

 

 

格式の高い禅寺だけあって内陣には威厳が漂う。本尊は釈迦牟尼仏

 

 

欄干の彫刻も見事なもの。

 

 

自分の身体の悪い部分と同じ部分を触ると治してくれるという「賓頭盧尊者びんずるそんじゃ)」の像。

 

 

開山堂へ続く廊下の途中にある瑠璃殿には、薬師三尊・十二神将の像が置かれている。

 

 

ずらりと位牌が並ぶ紫雲殿(位牌堂)。突き当たりが開山堂。
位牌に囲まれた通路をカメラをぶら下げて歩くのがはばかられて、ここで引き返す。

 


次は奥の座禅堂へ。凛とした空気の中、後半へ続く…